風の道アートDiary

人生後半、描きたいものを、心より

はじめに

還暦を超え60代も後半になった私が、ブログを始めるに至った経緯を紹介します。

子供の頃の夢は漫画家になること 

きっかけは、少女フレンド(1960年代の漫画週刊誌)に連載されていた、‟ちばてつや”さんの「ユキの太陽」を読んだことに始まります。
テレビが一般家庭に浸透しはじめて間もない頃、他にこれと言った娯楽も無かった時代に、教育には無頓着だった両親が、私にこの少女フレンド、兄に少年マガジンを、創刊号から予約購読させてくれました。
毎週本屋さんに取りに行くのが待ちきれない程楽しみで、真っ先に読むのが「ユキの太陽」です。ストーリー自体はアルプスの少女ハイジの日本版といった内容で、そこまでのインパクトはなかったと思いますが、簡潔で力強い線描に、毎回ワクワクと心躍らせていました。そして自分も絵を上手に描いて、誰かに見せたいという単純な憧れを持つようになりました。

元々、絵を描くことには興味を持っていて、家の土間の漆喰壁には、釘の先で描いたと思われる人形の顔が、大小ところ狭しと並んでいました。何歳の頃の仕業かわからないけれど、家の者もよく黙って描かせてくれたものだと思います。 
 また、当時は白い紙は貴重で、絵を描くのはもっぱら道端や空き地の土の上に、棒切れで描いては消し、消しては描きの繰り返しでした。日が暮れ地面の線が識別できなくなるまで、しゃがみ込んでいたのを覚えています。
マッチ箱に刷られた、歌川広重東海道五十三次の図柄を、飽きずに眺めていたのもこの頃です。

絵は第二の人生の夢 

漫画が自分の中の絵ごころを自覚するきっかけとなって後、中学校時代に美術の授業で、有名な西洋絵画・日本画等を目にするようになると、興味は一気にそちらに移りました。美術の先生はあまり指導らしい指導もない無口な方でしたが、自分の絵を褒めてくれた最初の大人として、忘れることのできない存在です。実際にはほとんど話もしていないし、特に目をかけてもらったわけでもないのですが。

そのように夢に真摯だった私が、大人になって進んだのは、地道で安定の道。地方公務員です。安易に進路を選んだことの後悔はありますが、職を得て自立することが先決でした。以来、絵を描くことは、いつかできる日の夢に変わりました。

50歳過ぎの10年間程の間には、地元のデッサン教室や通信講座で絵画の基礎を勉強し、公募展に参加するため油彩の制作もしました。上手くなりたい一心で、時間のない中あれこれ挑戦したことが、無駄だったとは思わないけれど、皮肉なことにこの時期のことが、今では「絵を描く=苦しい」というトラウマとなって、自分にブレーキをかけてしまいます。

36年間勤めた市役所を定年退職した時、心底嬉しかったことは忘れられません。
まるでボロ雑巾の如くクタクタでした。しばらく休養したら念願の絵を始めるつもりだったのに、怠惰な性格の私は、日いちにちと先延ばし意気阻喪、いつかの夢は7年経っても未だ実現されないままです。

絵を描いていない後ろめたさ、自分の劣化を知る恐れ、今さら遅すぎるというあきらめ。これらをなんとか払しょくし、下手でも描くことを楽しみ、絵のある暮らしを取り戻したいと願っています。