心の風景
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
瀬戸内の小さな島、「犬島」。
岡山市東区宝伝・久々井地区から3キロほどの沖合にあるこの島は、近年、産業遺産である銅の精錬所跡を中心に、アートの島として整備されています。
同じ瀬戸内の直島と連携して芸術祭が催され、観光面でもPRされるようになってきました。
しかし、ここをを知る人は、近在住民でなければごく僅かであろうと思われ、観光開発される以前のこの島へ行ったことのある人は、さらに少ないと思われます。
私はひと昔前、この島で忘れがたい時間を過ごしました。
ここで見たもの、触れたもの、記憶はだんだんと淡くなってはいますが、絵を描く源泉には今もその時の想いが変わらず流れています。
以下本文は、郷愁の色濃い個人の回顧録です。よろしければお付き合いください。
風景との出会い
今から18年ほど前、そこは私にとって別世界が広がる夢の島でした。
周囲約4キロ、一回りするのに2時間もあれば充分の起伏のない地形。民家、小学校、郵便局、どこにでも見られる変哲のない島の風景。
ただ、その側に少し違う空間があったのです。
何のきっかけけでこの島を知ったか定かでないのですが、2000年代の初め、一人でここを訪れました。
迷いながら長時間の車の運転の末、宝伝港から定期便の渡船で10分足らず。
島に降り立ち、舗装されていない小道を歩きながら、私にはすでに興奮の予兆がありました。
ーーーまだ何も見えていないのに。
春浅い頃で、道端に咲くラッパ水仙と、ダルメシアンを2匹連れた男性が通りかかり挨拶したのを覚えています。
ほどなく行くと視界にチラッと煙突の先端が見え始めます。
精錬所跡地が俄かに現れた時、私は驚きと嬉しさで小躍りしました。
目の前の光景があまりに異様だったから。
歪な形に崩れた巨大な赤い煙突、
丈の低いレンガの壁が不規則に列をなして一帯に広がっています。
こんなものが此処にあろうとは。
さらにその先に
変形した遺構、
西洋風の壁だけの建物、
ダンジョン、
至る所、自由に伸びた植物群、
足元は砂とレンガと瓦礫。
ここだけ時間が止まってしまったかのような光景でした。
島が私にくれたもの
ーーそれは、絵を描く原動力。
*2
当時、私は子育ても一段落し、長年暖めてきた趣味の油彩を始めていました。リタイア後の心の拠り所として、退職前に絵のある暮らしの土台を作りたかったのです。
とある美術団体の関西展に、50号の人物画を描いて出品したのを皮切りに、その団体の全国展に入選することを目標にしていました。
しかし、小品もさほど描いたことのない者が、いきなり大作を描けるはずもありません。もどかしさと焦りに悶々とする日々。
そして、打開の糸口を見つけようと、その会派の6〜7年分の作品集を手に入れ出品作家さんの絵を見ているうち、どの人にも自分のテーマがあり、それに伴って画風が定まっていることに気づきました。
皆それぞれ独自のスタイルを確立しています。
私にはこれといった得意分野も、特に描きたい題材もありませんでした。強いて言えば、漫画風の人物画なら描けるかな、といったくらいで。
自分は何が描きたいのか?
何が描けるのか?
そんな折、見つけたのがこの島だったのです。
時代の波が去り無用になった工作物と、自由に伸びる植物の共存。この姿を目の当たりにした時、何故かこれらが無性に愛おしく感じられ、ちっぽけではありますが自分のアート魂(のようなもの)に火がつきました。
「この風景を絵にしたい。」
「描きたい思いがあればきっと何とかなる」と。
こうして作画の構想を得た私は、目標に向けての第一歩を踏み出すことができたのです。が、何分にも絵は独学のうえ経験も浅い素人です。道のりは凸凹、思う以上に体力、気力を要するものでした。
2度目の島訪問
初回で大きな収穫を得た島へ、あまり時を置かずして2度目の訪問をします。
そのためにデジタルカメラを購入し、操作やPCへの取り込みに苦労しつつも、なんとか使えるまでに漕ぎつけ、その最新機器を手に、絵の材料を収集しようと再度島に向かいました。
この時も、渡船には私以外の乗客は島民らしき人が一、二人居ただけで、精錬所跡は”貸切状態”です。ふふふ。ここは私の独壇場と化し、だれにも邪魔されないでアレをパチリ、コレをパチリ。
持参した軽食を食べる時間もそこそこに、夢中になって徘徊しました。
煙突内に入ったり、崖をずり落ちたり、小部屋を行き来し、ダンジョンに潜り、いい年をしたおばちゃんが独り嬉々として暗躍しているところは、人に見せられた姿ではなかったですが。
残念なのはこれらの写真が、データもプリントしたものも何も、カメラ自体も残っていないことです。データはパソコンが壊れた時に消失してしまいました。(バックアップを取っていなかった)もう一度あの頃の島の様子が見たいと、最近とみに悔やまれるのです。
公募展の隅にて
2005年9月、犬島を半具象的に表現した絵で目標の公募展に初入選しました。会場の東京都美術館へは一人で見に行きました。
嬉しさ7分、不安3分。いざ自分の絵を見つけた時は、恥ずかしくてまともに見ることができず、離れたところからそっと覗き見るのがやっとでした。
悲しいくらいに 自分の絵は稚拙で場違い、でした。
2段掛けの上段に配置されたのを見れば、まさに・・・です。
2日かけて会場内のすべての作品を見て回った私は、その迫力に圧倒され気落ちしながらも、帰りの新幹線では強気が戻っていました。
「次は2段掛けにされないような絵を描くのだ!」
一作目のほろ苦い思い出です。
<油彩制作のこと>
公募展は3年目から会場が新国立美術館に変わり、そちらへも2度足を運びました。
この間、犬島をテーマにした絵は、回を追う毎により抽象的な心象画に変化し、油彩制作は軌道に乗ったかのようでした。が、7年目に入った年、心身ともに疲弊して作品が仕上がらず、やむ無く出品を断念してしまいます。少し休んだらまた復帰しようと思いつつもそれ以降、会からは遠ざかり油彩画も描いていません。
私にとっての犬島
私は元来、古びたもの壊れたものに興味を持ってしまいます。
念のために言うと、いわゆる”廃墟マニア”ではありません。例えば長崎の軍艦島。あの物悲しい暗さは苦手です。どこぞの廃ホテルやユースホステルは不気味で怖い。
犬島は明るく乾いた風が吹いています。廃れていても悲壮感はありません。「天空の城ラピュタ」のラストシーンに似た穏やかな世界観を感じさせます。
印象というものは人によって千変万化あり、また受ける人の状態や環境によっても様々で、私が得た印象に他者の共鳴が得られるかどうかはわかりません。
ただ、人には誰にでも一つ二つ、瞬時に心を捉えられる場所、懐かしさを覚える場所があると思います。原風景あるいは心象風景とも言われるものです。
私にとって犬島がその場所でした。
自己表現するために探し当てた心の風景。
今でも絵の中で、当時を彷徨うことができる自分の居場所です。
再生した島
3度目の訪問時、精錬所跡地には工事の前兆と見られる異変が起きていました。
その頃、夏期に催されるイベントでかなりの集客があったことや、福武財団による開発計画があることなど知ってはいましたが、とうとう、そのアートプロジェクトなるものが着工されることになったのです。
人の手が入った後の精錬所跡は想像するまでもなく、もう私の欲する所ではなくなります。
もとより自分の所有物でもなく、文句の言いようもありません。少しの理不尽と、たくさんの感謝の気持ちで一帯を散策し、スケッチをして見納め、夕暮れ前の船便に乗りました。そうそう、この日もダルメシアン達に会いました。
このプロジェクトは、医療廃棄物の処分場にする計画から島を守ることや、廃墟を自然エネルギーとアートで再生する等の名目が掲げられていますが、商業目的でもある以上、それ仕様で再生工事がなされ、本来の素朴な美観は大きく損なわれたように思います。(あくまでも個人的な意見。)
再生後の島は見ていないのですが、知り得た情報としては
入り口には錠のかかった門、
新設されたガラス張りの美術館、
補強された煙突、
植物は歩行の妨げにならぬよう刈り取られ、
遊歩道が整備され、
巨大な陶器製の犬のオブジェなども加わったようです。
思い出の日
当時を振り返れば、風景と共に風や匂いまで蘇ってきます。
島を訪れたのは都合3回。時間的には24時間にも満たないこの体験が、今では私の貴重な財産となりました。
その頃は体力の衰えなど感じず、まだ将来に可能性が持てる年代でもありましたから、絵に熱中し、がむしゃらに突きむ日々が、後にこれほど印象深く残るなどとは思ってもいませんでした。
絵を描くことが歳を重ねる毎に重荷に変わり、疲労が熱意を奪い、だんだん先が見えてきた時に、皮肉にも犬島での思い出はその価値を増してきたのです。
あんな風に心を揺り動かされる場所に出会うことが、今後あるかどうか。
分不相応な目標を掲げ、なり振り構わず絵を描いていたあの時の自分が眩しい・・。
未だ描きたい絵の一枚も仕上がった試しは無く、犬島を持ってしても、真に完成した絵というのはないのですが、あの頃の作品は、拙いが故の懸命さが込められていて、捨てがたいです。
油彩をやめて10年以上、もうすっかり思い出になった犬島と、当時の私を辿りながら、あらためて時間と、その過ごし方の大切さを感じています。
願わくば10年後も、愉しんで絵を描く自分が居ますようにーー。
最後までお読みいただき有難うございました。