風の道アートDiary

人生後半、描きたいものを、心より

ベアト・アンジェリコの翼あるもの

絵画にまつわる小説の紹介です

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今日はアントニオ・タブッキの短編、”ベアト・アンジェリコの翼あるもの”を読みました。
いつ読んでも心洗われる思いがし、これを読むと下手でも自分なりに描きたいものを描けば良い、と素直に思うことができます。

ページ数にして18Pくらい、20分もあれば読める短編で、口語の部分が特に素朴で良い。以下この短編のあらすじです。(括弧内は本文より抜粋)

最初の翼あるものがやって来たのは、六月終わりのある木曜日、すべての修道士が勤めのために礼拝堂にいた、夕べの祈祷の時刻だった。

 
僧ジョバンニがある日の夕刻、畑仕事をしていると誰かが彼を呼びます。しかし彼の目は、今しがた取り入れた玉葱のせいで涙にくもり、その得体の知れない生き物が何なのか良く見えない。まつ毛が乾くようにと目をすがめ、その”翼あるもの”を見上げます。それは梨の木にひっかかっていました。
 

見たところ柔らかそうな、薔薇色の小さな生き物であった。羽をむしられ骨だけになった鶏みたいに黄ばんだ小さな腕をして、肢は肢でまた痩せほそり関節が突き出し、指は七面鳥のそれみたいに胼胝(タコ)だらけだった。顔立ちは年老いた子供のようでいながら滑すべで、両の目は黒く大きく、髪の毛がわりに白い産毛が生えていた。

 
翼あるものにジョバンニは尋ねます。「僕を呼んだのはきみかい」すると、翼あるものは否定し、ジョバンニの方を肢で指し示す。「僕を呼んだのはぼくだって?」

翼あるものは、ジョバンニの分身なのかもしれません。
「ぼくがきみのことを解るのは、ぼくがきみのことを解るからに尽きるようだ。」と、彼自身、断定します。
その夜、もう2つのよるべなき生き物が仲間を探して、ほかの空間からやって来ます。
それらの生き物たちが、上昇に持ちこたえるだけの力を回復する間、修道院で庇護するのですが。その夜、眠りについたジョバンニに翼あるものは言います。

「明日はぼくらを描かなくてはいけないよ、わざわざそのためにやって来たのだから。」

 
ジョバンニは修道院の僧房の壁に、二つの生き物たちを描き、最後に、初めに飛来した翼あるものを、良い眺望を備えた広い場所、すなわち二階の廊下の壁を選んで描きます。
 

「薔薇色の寛衣できみを覆ってあげよう。きみの身体はあまりに醜いからね。聖処女を描くのは明日にしよう。今日の午後いっぱい辛抱してくれたまえ。そうしたらきみたちはふたたび旅立つことができるから・・・いまつくっているのは、<受胎告知>なのです。

物語は、名画の完成を予告しながら、ここで終わります。


「神に祝福された天使」という名のベアト・アンジェリコ。この短編では、その画家の清らかな絵は、修道院の淡々とした日常の、玉葱の取り入れや、スープを作ることと何ら変わり無い仕事の中から生まれています。
事実は定かではないにしても、さもありなんと思える部分が多く、キリスト教徒でなくとも、敬虔で穏やかな気持ちになれますから、絵を描いていて雑念の多い時にはお薦めしたい一冊です。